神社名 | 若櫻神社 |
よみ | わかさじんじゃ |
住所 | 若桜町大字若桜634 |
祭神 | 國常立尊 伊弉冉尊 誉田別尊 天照大御神 豊受神 素盞嗚尊 保食神 倉稲魂神 大己貴尊 彌都波能賣神 大山祇神 軻具突智神 天御降産神 菅原道真公 |
祭祀 | 例祭5月3日 隔年毎で神幸祭斎行。麒麟獅子舞、浦安舞、榊、神輿三台、奴之舞、武者行列、本面、傘鉾七台、子供連踊7組が町中を練り歩く。宵宮祭にはお釜立神事、剣之舞、浦安舞がある。 |
旧社格 | 郷社 |
各種指定 | 社叢が県天然記念物(昭和57年) |
その他 | 境内面積 24,921㎡ 若桜駅から南西約600m。参道を通り神橋を渡ると神門があり、200段の石段の両側にはスギ、ヒノキ、カシ等の大木が茂り、登り詰めると広庭がある。拝殿の前にスギの大木が並立している。社殿は東南に面している。 |
由緒
創立年代は不詳。近世まで松上大明神と称した。
社伝によれば文治年中(1185~89)に小松備中守平師盛が参拝して甲冑を奉納し、元弘3年(1333)に後醍醐天皇京都へ御還幸の際、名和長年が鉾を奉り、貞和4年(1348)に山名伊豆守が鏡を奉納したと伝えられる。
当社はもと鶴尾山の八兵衛谷(三倉村)に鎮座していたが、応安2年(1369)に矢部若櫻守が鶴尾山に築城の際、山田村松上山の内の現社地に移遷、その後、矢部氏代々の守護神として崇敬された。
天正9年(1581)羽柴秀吉の因幡攻めのとき兵火にかかり、社殿、宝物を焼失。天正10年(1582)木下備中守重賢が若桜鬼ヶ城主とな って社殿を修復したが再び焼失。慶長15年(1610)城守山崎左馬之允家盛、甲斐守家治父子が社殿を再興し、郡中の大社とするとともに、赤松村から熊野権現(伊弉冉尊)を、三倉村から八幡宮(誉田別尊)を当社境内に移し新たに二社を建立した。
その後、この地方は池田氏の所領となったが、代々藩主の崇敬篤く社領並びに初穂料の供進があり、宝物等も奉納している。万延元年(1860)に本殿を改築し、熊野権現、八幡宮の両社を合祀した。
明治元年に若櫻社、明治4年に若櫻神社と改称した。明治44年に若桜宿内の天尊日神社(天照大御神)と同社境内の稲荷神社(豊受神)、若桜宿内の荒神社(素盞嗚命)、秋葉神社(天御降産命)、稲荷神社(保食神)及び当社境内の稲荷社(倉稲魂命)、北野社(菅原道眞命)、山田社(大己貴命)を合祀した。
大正5年に三倉の村社三倉神社(もと八幡宮誉田別命)、浅井の村社浅井神社(もと牛頭天王、素盞嗚尊)、大炊の村社大炊神社(もと岡大明神彌都波能賣神)、高野の村社高野神社(もと妙見大明神國常立尊)、三倉の荒神社 (素盞嗚尊)、山神神社(大山祇命)、愛宕神社(軻遇突智神)を合祀した。
武内宿禰が下向の際に参拝されたという伝承や、履中天皇の朝に物部長真膽連が若桜部造の姓を賜って以来、その子孫が此の地に居住し崇敬したという伝承もある。