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加知彌神社

神社名
加知彌神社 〈通称勝宿さん〉 
よみ
かちみじんじゃ
住所
鳥取市鹿野町寺内155-1
祭神
彦火火出見命 鵜草葺不合命 玉依姫命
祭祀
例祭10月21日
輪くぐり祭7月30日
隣接の公民館にて踊り等、ひな形流し
旧社格
県社
各種指定
「吉川元春祈願状・寄進状」が県有形文化財(昭和32年)、
スギが県の名木百選に指定
その他
本殿 文政13年(1830)建立
境内神社 勝宿稲荷神社 四神相殿社(東照宮荒神外)
宝物等 池田公寄進の「神輿(八角)」、亀井茲矩公寄進の「高麗石」、亀井茲矩公墨書の「旧本殿扉」 
境内面積 5,967㎡
浜村より鹿野に至る直線の県道の西側に広い社叢がある。社殿は東面して鎮座。
御神木は、境内右手にあるスギ(幹周4.3m)。境内林はスギ、イチョウ、ケヤキの大木等多様の樹種で形成。

由緒

『延喜式』神名帳(927)には加知彌神社と記載されるが、近世まで勝宿大明神と称した。
創立年代は不詳であるが、旧社地は宮谷或いは明神鼻にあったという。
現社地の旧称は飯田の森と称し祀職の住んだ地であった。移転の年代は不詳である。
寺内集落の薬師堂付近で奈良時代後期の遺瓦や塔の礎石が発見されており、勝宿大明神の別当寺宝照寺の旧跡と云われる。
中世以降、武門武将の信仰が篤く、永禄8年(1565)には武田高信、田公高清、矢田幸佐等により社殿を造営。
天正8年(1580)には吉川元春が戦勝を祈願して社領を寄進した。
その後、亀井茲矩が度々社殿を修造し、社領を寄進している。
近世も池田光政、光仲をはじめ歴代の藩主が社殿の修理、造営、社領の寄進を行い、篤い信仰を寄せている。
藩主自ら社参すること6代に及び、寛永10年(1633)の光仲寄進の社領39石6斗9升3合は、社領高として当時因伯神社中の首位であった。
旧本殿は入母屋造(3間四方)であったが、文政13年(1830)に大社造風の現社殿を建立した。
明治初年加知彌神社と改称した。 
大正2年11月に、宿字小池の砂田神社(もと荒神)、今市字家背戸の玉川神社(もと荒神)、今市字政所屋敷の今市神社(もと神明)、宮方字八景の宮方神社(もと妙見)、中園ぢ山の中園神社(もと荒神)、岡木(木梨)字上早尾の早尾神社(もと荒神)、岡木(岡井)字大日前の高田神社(もと高田大明神)、乙亥正字寺谷の三平神社(もと権現)、乙亥正字背懸の重山神社(もと恵比須)、勝見字稲荷谷の福田神社(もと法野権前)、勝見字湯鼻の澤田神社(もと荒神)、勝見字家ノ上の勝山神社 (もと稲荷)、濱村字宮ノ谷の宮川神社(もと権現)、濱村字家廻ノ中の濱村神社(もと龍宮豊玉姫命)の14社を合祭して境内に勝宿神社を建立奉祀したが、大戦後、旧社地あるいはその近辺に奉遷した。
平安時代に来因した加知彌親王の御霊を祀ったとの民間伝承(櫻姫伝説)もある。
幕末・維新の頃、神官飯田秀雄・年平父子は国学者・歌人として著名。年平は神祇官に出仕、天下三平の一人に数えられた。
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