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勝田神社

神社名
勝田神社 <通称:かんださん>
よみ
かつたじんじゃ
住所
米子市博労町2丁目10
祭神
正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 素盞嗚尊 天照大御神
祭祀
例祭4月15日
水無月祓6月30日
秋祭10月15日
旧社格
郷社
各種指定

その他
本殿(流造9尺1寸×7尺6寸、大正三年建立)、中門 拝殿 透塀 随神門 神輿庫 手水舎 社務所 集会所
境内面積 13,277㎡
JR境線の博労町駅東方の平地に南面して鎮座。境内に馬場奉納記念碑、神山奉納記念碑などがある。
境内神社 宮山神社(栲幡千々比賣命 邇々藝命 大物主命) 松尾神社(大山咋命)

由緒

創立年代不詳。社伝によれば往昔は弓ヶ浜外江村に鎮座。貞治(1362~68)より文安(1444~49)の頃までは中浜村新屋に鎮座。その後、勝田村椎山(勝田山)に奉遷、さらに天文22年(1553)現在地に奉遷したと伝えられる。
武門衆庶の崇敬篤く、米城開府の中村忠一が慶長6 (1601)に神領を寄進、次の領主加藤貞泰は米子城の鬼門守護の神社として社殿を造営、因伯太守池田光政も寛永4年(1627)に社殿を造営している。
寛文8年(1668)と元禄8年(1695)の造営も池田氏によるものであり、寛永10年(1633)の社領高は7石5斗1升となっている。
安永6年(1777)以降は氏子による修造となり、天保6年(1835)、落雷により社殿を焼失したが、9年の歳月をかけて天保15年(1844)に壮麗な社殿(本殿間口1丈8尺、拝殿間口4丈)を造営、『伯耆誌』(1858)にも「国中の麗社なり」と記されている。
近世まで勝田大明神と称されたが、明治初年に勝田神社と改称した。嘉永年中(1848~)の『神社改帳』によると、氏子区域は米子町外二八ヶ村とあるが、明治初年に弓浜部は分離された。明治38年、火災により諸社殿を焼失、大正3年に再建したのが現在の本殿である。大正5年に勝田町の椎山神社(素盞嗚尊)と東町の榎神社(天照大御神)を合併した。昭和48年に拝殿を改築、参集殿を新築し神苑を整備した。初詣の参拝者は5万人に及ぶ。
社号の起源は不明であるが、古く当地方を勝田庄と称したことに因るものと思われる。『民経記』の紙背文書断簡(天福2年(1234)) に「伯州勝田庄」の名が見え、『足利尊氏袖判下文』(文和3年(1354))には「伯耆国…神田庄…」の名が見える。中世における社地奉遷の範囲が十数㎞の広域に及んでいることから、当地方の有力武将との密接な関わりがあったものと推測される。
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