神社名 | 八幡神社 |
よみ | はちまんじんじゃ |
住所 | 米子市東八幡293 |
祭神 | 譽田別尊 気長足姫尊 足仲彦尊 素盞嗚尊 高良尊 物部大連神 |
祭祀 | 例祭9月15日 古式人形流し |
旧社格 | 郷社 |
各種指定 | 「神像」山陰最古の木彫神像、平安期作成の神像11体(県保護文化財 2021年指定)を含む23体 永禄10年(1567)、紀朝臣河岡山城守久貞の唐櫃 紀氏以前の在地神を窺わせる「物部大連社」(末社)の記録 白式尉、黒式尉二対四面の能面(伝豊臣秀吉奉納) 慶長10年(1605)に初代米子城主中村一忠が奉納した「三十六歌仙額」(24枚、全国でも古く中国地区で最古級) 文化13年(1816)の二間×一間の大絵馬 二〇三高地乃木将軍の大絵馬等 |
その他 | 境内神社 武内神社 荒神社 境内面積 2,300㎡ 日野川北岸に、東南面して鎮座。イチョウ、ケヤキを中心とした社叢。内陣跡地の石碑がある。 |
由緒
社伝に「養老4年(720)宇佐八幡宮を祭る」と伝えられるが、『伯耆誌』は中古(平安期)に紀氏(進氏の祖)の創建した神社と推定し、地頭職・社領寄進の古文書十余通を引用して詳細に考証している。当社『棟札書上帳』には天永2年(1111)八幡大神上葺と見える。
元弘3年(1333)の後醍醐天皇の綸旨と伝わる書状には「但馬國土田一分地頭職依勲功之賞巨勢家(当時の当社神官)感可令知行者綸旨如此悉之元弘三年五月五日勘解由次官判」とあり、また建武5年(1338)の山名時氏の書状には「伯耆國久保田庄内三谷村地頭職事、右意趣者、天下泰平殊當國凶徒對治者備所奉憑當社加護也、仍寄進状如件、前伊豆守源時氏判」とある。
往古、社域は8」町四方にわたり、神宮寺を有し、社家6戸、士8戸があったと伝えられる。寛永11年(1634)以降の造営に際しては藩より作事奉行、大工棟梁を差向けられ、銀、材木等の寄進が続けられた。慶長年中(1596~1615)に40石、元和6年(1620)に55石9斗8合、寛永9年(1632)40石2斗7升3合を寄進の証文等が残っている。
明治初年、八幡宮の旧称を廃し、境内末社(明和5年(1768)の社帳には摂末社として神功皇后、仲哀天皇、石清水、武内宿禰、物部大連の五社が記されている)を合祭して八幡神社と改称した。
明治初年、八幡宮の旧称を廃し、境内末社(明和5年(1768)の社帳には摂末社として神功皇后、仲哀天皇、石清水、武内宿禰、物部大連の五社が記されている)を合祭して八幡神社と改称した。
大正6年、もと五千石村福市の西千田神社(素盞嗚尊高良尊)、武内神社(高良尊)、東堀神社(素盞嗚尊高良尊)、春日村水濵の水濵神社(譽田別尊)を合併した。昭和41年日野川の河川改修に伴い移転した。