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日吉神社

神社名
日吉神社
よみ
ひよしじんじゃ
住所
米子市淀江町西原767
祭神
大己貴命 少彦名命 猿田彦命 素盞嗚命 建御名方命 武甕槌神 倉稲魂命 稚産靈命 保食神 天日方奇日方神 蛭子命 稲背脛命 稲田姫命 稚日女命 天照大御神 天之佐奈咩神
祭祀
例祭5月3日
秋季祭10月17日
例祭には二百数十名参加の神幸行列がある。最近は子供奴が参加する。寛永年中(1624~44)の神幸復活願の古文書がある。途中、中絶もあったが、その度に藩主に願い出て復興し、三百七十数年の伝統を守って現在迄盛大に継続している。
秋季祭には小中学校生による奉納剣道、乳児による泣き相撲奉納がある。 
申し上げ祭り…町内東西の公民館に於いて新穀感謝祭(申し上げ)を行い、各戸から持ち寄りの稲藁で蛇を作る。東の町内は牡蛇で男根をつけ、西の町内は牝蛇で腹部に鶏卵5ヶを入れる。東の町内から神社に上り荒神宮の裏の榊に巻き付け、頭は東に男根は西に向ける。続いて西の町内の牝が上り同じ榊に巻き付け神事終了となる。子孫繁栄、豊作祈願の神事として毎年行われている。
旧社格
郷社
各種指定
神幸祭が米子市無形文化財に指定(昭和53年)
その他
宝物等 藩主池田光仲寄進の烏帽子・沓、鎌倉時代の作と言われる木像一体、中村伯耆守家老横田内膳正村詮の寄進状 
境内神社 天津神社 國津神社
境内面積 10,279㎡
淀江町西原の西方の山裾に北面して鎮座。社殿周囲はスギ・ヒノキ・シイの古木、その他の雑木が繁茂。JR線が境内を通過しており、社殿、社務所を分離。(忠魂碑一基 慰霊碑一基)猿の石像二基 境内隣接地に石棺三基。

由緒

創立年代不詳。大永4年(1515)春、尼子経久大挙の兵火によって、宝物、古文書等悉く焼失した。随神門に安置していた木像1体のみ現存。将軍足利義政の庶子、谷野若狭守源成安が乱を避けて当地に帰住、直ちに大永4年(1515)12月に社殿を造営し、新たに近江より山王宮(日吉大社)を勧請した。境内末社天之佐奈咩神社は樹木鬱蒼としている小丘古墳に鎮座、古代の佐奈咩神の神跡として現今も畏敬されている。
『日本三代實録』貞観16年(874)7月の条に「授伯耆国正六位上天之佐奈咩神従五位下」とあるのは当社のこととされ、後に山王宮を勧請した事が伺える。近世まで山王権現(山王二十一社権現)と称したが、明治初年に日吉神社と改称した。
大正2年に宇田川村福井の福井神社(もと荒神 素盞嗚命)を合併、同5年に高麗村保田の保田神社(もと若宮 建御名方命)、今津の今津神社(もと荒神 素盞嗚命)、日御碕神社(もと御﨑 武甕槌命)、淀江町淀江の稲荷神社(もと稲荷大明神 倉稲魂命 稚産霊命 保食神 天日方奇日方命 蛭子命 素盞嗚命 稲背脛命)、淀江神社(もと牛頭天王 素盞嗚命 稲田姫命)、大和村平岡の平岡神社(もと利寿権現 稚日女命)、小浪の日御崎神社(もと日御﨑大明神 天照大御神 素盞嗚尊)を合併した。
明治35年に旧国鉄(現JR)が境内を横断して開通、社地狭隘となったが、あらためて境内を拡張し、社殿の造営を進め、大正15年5月に竣工した。淀江町今津、淀江、西原、平岡、福井、大山町保田の氏神である。
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