本文へ移動

國信神社

神社名
國信神社
よみ
くにのぶじんじゃ
住所
大山町国信1
祭神
譽田別尊 帶中津彦命 息長足姫命 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 武内宿禰命 稚産靈命 倉稲魂命 保食命 稲背脛命 素盞嗚命
祭祀
例祭10月15日 江戸時代前期より続く神幸行列は放生会の名残りをとどめ、藩主池田氏の裁許状も現存する。供奉者280人、道具持物98組、 道中1.3㎞、ねり言葉は古式に則る。 御旅所で祭典、神楽、舞を奉納。
旧社格
村社
各種指定

その他
境内面積 5,702㎡
集落の北西方に南面して鎮座。サクラの大木が多い。

由緒

創立年月不詳。近世まで國山八幡宮(また正八幡宮)と称し た。社記に建久2年(1192)源頼朝の幕下佐々木高綱が社殿を建立し神領を寄進したと伝えられるが、『伯耆民談記』は雲州富田城主佐々木民部太輔尼子晴久の建立と推定している。
米子城主中村氏は神馬と神領百20石を寄進。祭礼には家臣大勢参拝、競馬、流鏑馬が奉納され、今もその地名、順路が残る。寛永10年(1633)に藩主池田氏は祈願所として高16石4斗を寄進、安永9年(1780)11月には汗入郡惣大社として郡中の神主を集め盛大な祭礼を執行している。営繕費用も郡中(汗入、会見、日野3郡の大庄屋)に課当された。近世社帳に、境内社稲荷大明神、村内末社若宮八幡、花八幡、高良八幡、大荒神等の記載がある。
明治初年に末社の諸神を合祀して國信神社と改称した。大正5年に末吉の村社末吉神社(もと武氏大明神(牛頭天王 稲荷)武内宿禰命 素盞嗚命 倉稲魂命)と末長の末長神社(もと牛頭天王 素盞嗚命)を合併した。国信、末吉、末長、大山口各集落の氏神である。
社記伝承として欽明天皇元年に霊験により宇佐八幡宮を勧請とも、また、神功皇后三韓を征して御凱旋、御宿願により因州摩尼山に御参詣の途次、三保関沖で難船、國信村の汀の原に御上陸、その御座所が当社であると伝えられている。船磯、籏鉾、馬留、太鼓面等の地名はその名残という。さらにまた、神功皇后宇佐八幡宮を勅請の当日、汀の原の大石の上に白鳩一羽が飛来して止まる奇端があり、以来これを雄鳩の大石と称する。天正年中、毛利尼子の末吉城攻防の折、社殿を焼失し、玉殿を守護して海上に避難、兵火静まって後この雄鳩の石の上に仮鎮座、新殿建立までの間、祭祀を行ったと伝えられる。
TOPへ戻る