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名和神社

神社名
名和神社
よみ
なわじんじゃ
住所
大山町名和556
祭神
名和長年朝臣
祭祀
例祭5月7日 例祭日には、元弘3年長年公が褒賞の宸翰・家紋を賜った日が当てられている。長年公が伯耆・因幡・出雲守として産業振興に尽力された故事に因んで、戦前まで、毎年4月10日には養蚕安全祈願祭が斎行され、神門前から大勢の参拝者に木札を撒き、その木札と引き替えに蚕の卵(種紙)を頒布する神事が行われていた。
旧社格
別格官幣社
各種指定
「県民の建物百選」に選ばれる。
その他
宝物等 『名和氏紀事』版木一式 大太鼓(鳥取城で常用されていた直径1.5mの欅一本造)他 
境内神社 臣神社 氏殿神社(摂社) 例祭4月22日
境内面積 33,000㎡
海岸近くに建つ社号標から約700mの通称「桜のトンネル」と呼ばれる参道が本殿に向かって延び、直線上に鳥居・神門・拝殿が配置されている。
社叢は、樹齢約200年のクスノキの大木をはじめ、ヒマラヤスギ・ヒノキ・スギ・サカキ・モミ等各種樹木が混生し
て、多種の鳥類や昆虫類を育む。

由緒

神社の創建は承応、明暦(1652~57)の頃に、名和長年公の遺徳を慕う地方の崇敬者が、名和村地内(坪田)の名和氏屋敷跡に一小祠(氏殿権現)を建立したことに始まる。この地には名和神君之碑(天保6年(1835)国主池田氏建立)が建っている。
延宝5年(1677)に藩主池田光仲が臣大窪友尚と議り、旧社地の200m南方、当社鎮座地にほど近い日吉坂の山王権現の社地に、新たに社殿を造営して氏殿権現を奉遷した。安政5年(1858)に正墻薫が藩主池田慶徳の命を奉じて建碑(故伯耆守名和君碑)。
明治6年に県社に列せられ氏殿神社と改称。その後、地方の崇敬者総代等の尽力と慶徳公の朝廷への建言もあり、同11年1月に別格官幣社に列せられ名和神社と改称された。長年公時代の米蔵跡地である長者原(現社地)に、崇敬者有志により新社殿の造営が図られ、明治16年4月10日に竣工し奉遷された。この日、朝廷より新たに神霊代が奉安され、後日、祭神に従三位が贈られた。
その後、昭和7年から10年にかけて拝殿、神門をはじめとして大規模な社殿が新たに造営された。
『太平記』『梅松論』など中世文書・資料には御祭神について数多くの記述が見られ、戦前から専門的な研究書も出版されている。また後醍醐帝や長年公にまつわる伝承は旧伯耆国を中心に各地に残されている。それらを記録した資料や研究書も門脇重綾の『名和氏紀事』、平泉澄の『名和世家』を初めとして多数刊行されている。
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