神社名 | 逢坂八幡神社 |
よみ | おおさかはちまんじんじや |
住所 | 大山町松河原233 |
祭神 | 譽田別尊 息長帯姫 尊田心姫 尊湍津姫尊 市杵島姫尊 天照皇大神 素盞嗚尊 稲田姫尊 天之忍穂耳尊 天穂日命 活津彦根尊 熊野久須日尊 大山祇尊 木花咲耶姫尊 倉稲魂命 武内宿禰命 |
祭祀 | 例祭5月4日 例祭には、前夜祭に(放生会)だかれ子(その年に生まれた子供の無病息災を祈願)浦安の舞の奉納。 例大祭の神幸祭時代行列(延宝6年(1678))は、神輿三基、鳥毛白毛を振る。浦安の舞の奉納。 管粥神事…旧暦1月15日に竹の筒の中の粥の詰まり具合で、その年の豊作物の作柄を占う。 蝮祭…毒をもつ獣の災いを除く安全祈願祭。 |
旧社格 | 郷社 |
各種指定 | |
その他 | 境内面積 749,200㎡ 国道9号線の北側、山麓に東南に面して鎮座。スギ・シイ・タブノキ・イチョウの大木がある。 境内神社 武内神社 摂津神社(池田摂津守利政朝臣) 荒神神社 稲荷神社 神宮寺(近世社帳に神宮寺堂本尊薬師祭神大己貴命とある) 木ノ根神社 甫登神社 |
由緒
清和天皇貞観7年(865)3月、豊前国宇佐八幡宮より勧請、当初大坂郷の大社宇佐八幡宮と称し、のち大坂八幡宮と称した。
当時は多くの神田を有し、神官も多数、付属の神宮寺を有していたが、応仁以降に国が乱れて神田を失い、神官社僧もその数を減少した。
天文12年(1543)尼子晴久が当社に祈願し霊感があり、同年6月5日神田120石を寄附、社殿を造営し、尼子義久・勝久も厚く崇敬した(尼子氏の古文書3通現存)。
豊臣氏の時に神田100石を没収され、後に米子城主中村伯耆守に20石を没収され、この時神宮寺の僧侶も廃絶した。慶長3年(1598)4月、火災に遭い旧記の多くは焼失。寛永年中、八橋汗入両郡の領主池田摂津守利政朝臣が逢坂郷内の岡村に住館、因って当社を産土神として厚く崇敬し、毎年祭典費を寄附していた。寛永10年(1633)11月、因伯大守松平相模守が社領高3石5斗8升を永く寄附。その後も祈願所として毎年金若干を奉納。弘化3年(1846)、池田家より幕・提灯の寄附があり、これより丸に揚羽蝶の紋章を用いる。
明治元年逢坂神社と改称。この時、境内末社稲荷大明神(倉稲魂命)を合祀。武内宿禰命は本社創立時より相殿に奉祀していた。
大正6年に松河原の松河原神社(もと牛頭天王 素盞嗚命 稲田姫命 田心姫命 狭依姫命 湍津姫命 天忍穂耳命 天穂日命 活津彦根命 熊野久須日命 天照大神)、岡の岡神社(もと山房大明神 大山祇命 木花咲耶姫命 倉稲魂命)、殿河内の殿河内神社(もと牛頭天王 素盞嗚命)を合併。大正9年12月、逢坂八幡神社と改称した。國石神社、塩津神社、高橋神社は逢坂八幡神社の摂社となる。
正保3年(1646)以降の本殿造営、修復棟札10枚が現存する。