神社名 | 方見神社 |
よみ | かたみじんじゃ |
住所 | 琴浦町大字上伊勢100 |
祭神 | 天照皇大神 天照髙日女神 伊邪那岐神 伊邪那美神 鵜草葺不合尊 菅原道真命 |
祭祀 | 例祭10月11日例祭には神輿(2基)渡御。 各村のお旅所で「浦安の舞」を奉納。 13歳未満の女児(ミケノオコラ)12名、神事に奉仕の古例を受け継ぐ。 御座舟 (ござふね)…海岸沿いの逢束地区では、古くから「御座舟」の神事が続いている。例祭に氏子の乗った船を若者が綱で曳き旧山陰道を往復神幸する。後醍醐天皇の往時を偲び、海上安全を祈る。 |
旧社格 | 旧八橋郡旧郷社 |
各種指定 | 木造随神立像(2体)が県保護文化財(昭和61年) |
その他 | 社紋 菊花(近世)、丸に揚羽蝶(現代) 主要建物 本殿(流造向拝唐破風付1間半四方明治29年建立) 幣殿 拝殿 神饌殿 随神門 参籠所 神輿庫 手水舎 社務所 境内面積 6,836㎡ 上伊勢の東、加勢蛇川沿に南面して鎮座。 社叢は疎林状であるがケヤキ、タブノキの巨木が多い。遙拝所(伊勢神宮、皇居の方向)がある 旧八橋郡旧郷社 宝物等 古文書(松室若狭守秀綱、森脇春親、河野美濃守、尼子勝久 等の神主宛の書状)、「伯耆之巻」群書、金扇、古鏡等(県立博物館に寄託) |
由緒
創立年代は不詳である。
『三代実録』元慶7年(883)12月の条に「授伯耆国正六位上天照高日女神従五位下」と記されている。
昔、八岐大蛇の妻の大蛇が加勢蛇川に沿った当地方の人々を悩ましたので、一雲という法師がこれを鎮めるため天照神を勧請したとの伝説(『伯耆民談記』)もある。往時は4町歩の社地があり、伊勢の神宮に模して野ノ宮、斎王殿、着到殿等があったと社記にある。現在も、上伊勢、下伊勢、鈴鹿野、伊勢野、上ノ城戸等の地名が残る。
承久2年(1220)の火災で社殿は焼失したが、弘安5 年(1282)後宇多天皇の命を受け伯耆の国司波多野氏が再興した。大永4年(1524)領主尼子氏が社殿を建立、天正10年(1582)春には、領主南條氏が社殿を新造営している。
慶長6年(1601)に中村氏が社領寄進。同じく国主池田氏より外高4石5升、幕、提灯等の寄進を受けている。
当社は、近世以前は天照皇大神宮、伊勢太神宮、大神宮、又は伊勢社と称した。方見一郷の氏神で、摂社16社、末社17社があった。
明治元年方見社と改 め、同6年方見神社と改称した。大正2年、旧市勢村金市の村社金市神社(もと茅原大明神鵜草葺不合尊)と村社北野神社(もと天神菅原道真命)、同村下伊勢の大野神社(もと八幡宮品陀和気尊)、旧伊勢崎 村金屋の村社金屋神社(もと牛頭天王素盞嗚尊稲荷大神)と同村中尾の中尾神社(もと若宮大明神天太玉命和久産巣日神)、旧逢束村鈴野の鈴野神社(もと脇束大明神素盞嗚尊)を合併した。
氏子区域は、逢束、浦安、中尾、上伊勢、下伊勢である。 方見(片見)は平安、南北朝時代の地名で、伯耆国八橋郡の郷名の一つ。
後醍醐天皇が隠岐ご脱出の折、舟が本土に近づくと風のために東に流され、近くに一艘の釣り船に会われ、「ここは何処か」と尋ねられると「伯州片見(現琴浦町逢束)と申す所にて名和湊までは五里ほどに候」と答えたという。(伯耆之巻、舟上記群書)
随神像は弘安5年(1282)秋、社殿再興の折、国司による寄進とされ、大正7年帝室博物館により鎌倉初期の作と鑑定された。この種の立像の随神像は全国に2例しかない。