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樂樂福神社

神社名
樂樂福神社
よみ
ささふくじんじゃ
住所
伯耆町宮原225
祭神
大日本根子彦太瓊尊大日貴命 素盞嗚命 大山祇命 思兼命 火速命 手力男命 建御名方命 倉稲魂命    経津主命 武甕槌命 豊玉姫命 句句迺馳命 細比女命 保食神倉稲魂命
祭祀
例祭10月12日
大茅輪祭7月31日
旧社格
郷社
各種指定

その他
主要建物 本殿(大社造変形1丈4尺×1丈5尺延享2年(1745)建立) 幣殿 拝殿 神楽殿 随神門
境内面積5,000㎡ 集落の南方国道181号線の東側に大きな社叢がある。社殿は東面して鎮座。100mの馬場(参道)
がある。社殿の左方に前方後円墳(1部損壊)がある。御神木は、幹周3mのヒノキ(樹皮は歯の病に霊験があると伝わ
る)。シイ(幹周4.3m)、クスノキ、イチョウ、スギ等の大木が多い。
宝物等 境内古墳出土品

由緒

創立年代不詳。近世まで樂樂福大明神と称し、口日野の大社 として崇敬された。社伝によると戦国期の社領は80石とも伝えられる。 慶長6年(1601)中村伯耆守寄進の社領は13石。(横田内膳正村 詮の證文)寛文10年(1633)藩主池田氏寄進の社領は6石2斗4升6合である。当村大日如来堂の仏像はもと当社神宮寺(三帝山孝霊院 ―元禄期に滅亡)の本尊と伝えられる。慶安2年(1649)以降の造立・修復の棟札9枚を有し、藩祈願所として、年賀、祈雨、疫病除け等、口日野郡社家中参勤祈祷神札控を多数残す。延享2年(1745)郡中石高2厘掛により、間口約11間の豪壮社殿(現社殿)を造立した。明治初年樂樂福神社と改称し、同5年に溝口の溝口神社(もと國司大明神)を摂社とした。大正5年に根雨原の根雨原神社(もと王子権現、建御名方命大日貴命)、白水の日御崎神社(大日貴命素盞嗚命)、大倉の大倉神社(もと利寿権現、大山祇命思兼命外三神)、谷川の谷川神社(もと金剛童子、少彦名命外三神)、長山の長山神社(もと妙見大明神、豊玉姫命大山祇命)、大江の御崎神社(經津主命、武甕槌命)を合併した。溝口神社は昭和27年に、谷川神社は平成3年に分離した。御祭神とその御事跡について、国書(史実)とは異なるものの近世の諸文献、社伝等に諸説が伝えられている。『伯耆民談記』には「樂々福太明神、日野郡に建つる所、四ヶ所あり、各孝霊天皇を祭れる神廟なり、中にも当社を口日野の大社と称す、上古当国の西の端に悪鬼有って、数多の族類を従へ国民を悩乱す、天皇自から軍勢を卒し、当地に御座あり、悪鬼を尽く退し給ふ、遂に此地に ておいて崩御あり、其神跡とて社の後に方八間の岩窟あり」と記されて いる。 当地には、鬼の神通力に勝る霊力を以て、春一番の到来を予知し、笹葉を飛ばし、鬼を降伏させた。鬼はその霊力に感服し、北辺守護の下僕となることを誓ったという日本最古の鬼伝説が伝わる。(四四九頁参照) (考)「樂樂福」は「砂鉄(ささ)吹く」の意で鉄の神を祭ったものと言われるが、「笹葉吹く」(鬼退治伝説)また「笹葺く」(社屋古様式) の意も考えられる。樂樂福神社(772番)参照。
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