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波波伎神社

神社名
波波伎神社
よみ
ははきじんじゃ
住所
倉吉市福庭654
祭神
事代主神 下照姫神 天稚彦神 少彦名神 
健御名方神 味耜高彦根神 狹依比賣命 
多紀理比賣 多岐都比賣命
祭祀
例祭10月13日
旧社格
県社
各種指定
「社叢」が国の天然記念物(昭和9年)
「福庭古墳」が県史跡(昭和31年)
倉吉市保存林(昭和62年)
その他
社紋 亀甲に剣花菱 
主要建物 本殿(三間社流造1丈3尺×9尺 明治10年建立) 幣殿 拝殿 随神門 参籠所 神輿庫 宝物庫 
社務所 手水舎
境内神社 稲荷神社 北野神社 
境内面積 13,625㎡
太平山北西麓に南面して鎮座。
社叢はシイを中心とする原生林で形成され、スギ、シイ、タブ、ケヤキ、モミの大木がある。古墳が多くある。

由緒

創立年代不詳。
国史に見える「伯耆神」について『大同類聚方』(大同3年(808))に、「伯耆神は延喜式伯耆國川村郡波波伎神社当国国造祖神を祀る、伯耆薬は伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふ」とあるように当社のことであり、主祭神は事代主大神である。
『続日本後記』 承和4年(837)2月の条に「川村郡无(無)位伯耆神―略―授従五位下」とあり、斉衡3年(856)8月に「従五位上」(『文徳實録』)、 貞観9年(867)4月に「正五位上」(『三代實録』)に叙せられている。
『延喜式』神名帳(927)では「波波伎神社」と称され小社に列せられる。
天文12年(1543)雷火の為に社殿が焼失。
以後、小祠に奉斎されていたが宝永5年(1708)に産子伊藤孫左衛門が発願し社殿を建立した。
明治初年に郷社に列し、同10年5月産子福井善十郎が願主となり現在の社殿を建立した。
大正5年村社海田神社(宇佐大明神 宗像三神)を合併、昭和4年に県社に昇格した。
福庭地区の氏神である。
内大臣平重盛公(小松殿)の祈願所であったことから、波波伎神社小松大明神とも称されていた。
羽衣石城主南條伯耆守元続公祈願所として崇敬篤く、本社及び付属神社建物修繕等の神社費用一切を引き受けられ、神社及び神主守護の為、家老岸田弥助菅原長壽を遣わされた。
境内に幅3間、長さ70間の旧馬場跡があり、武運長久を祈念して5月5日に競馬奉納がなされていたが、南條公落城の後はこの儀式も廃れ、馬場という名称と地形のみが残っている。
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