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倭文神社

神社名
倭文神社
よみ
しどりじんじゃ
住所
倉吉市志津209
祭神
経津主神 武葉槌神 下照姫神 
伊弉諾命 伊弉冉命 誉田別命
祭祀
例祭4月29日3年ごとに2基の神輿が大名行列と共に6集落を巡幸する。
(神幸式は往時は室町時代の軍神祭の様式に倣ったが、江戸末期に大名行列の様式となる。御祭神が機織りの祖神であるため、行列に参加する舞人は自宅で織った反物を身に巻き付け、参詣の婦人は縞の襷をかけて参道に列したという。)
旧社格
県社
各種指定
倉吉の名木(昭和44年)
倉吉市保存林(昭和61年)
大名行列が市無形民俗文化財(平成23年)
その他
社紋 丸に社号の「倭文」の字 
主要建物 本殿(切妻造妻入正面千鳥破風付向拝唐破風付6尺8寸×6尺2寸 近世後期) 幣殿 拝殿 随神門 神輿庫 手水舎 社務所 
境内神社 荒神社 橘社 山田社 王代社 藤井社 
境内面積 6,952㎡
志津部落の南側の高台に東面して鎮座。
社殿の周囲にはタブノキ、ム クノキ、スギ、ツバキ、ケヤキ、 イチョウ等の古木が生い茂り森厳な神域となっている。倭文神武葉槌命が詔勅を受け出雲平定に御出陣、当社の地に陣営を堅められた折、諸神の飲料に当て給うた井が「神津井」と称して、当社より北200mの地に残る。今も御神水として神事に供する。

由緒

創立年代不詳。
『文徳實録』斉衡3年(856)8月の条に「伯耆国倭文神従五位上」とあり、『延喜式』神名帳(927)には「伯耆国久米郡倭文神社」と記載されている。
また、『日本記略』天慶3年(940)9月の条に「奉授伯耆国従三位倭文神正三位」の記載がある。
これら神階のことは伯耆国に倭文神社が2社あるため不明の点もある。
鎮座地志津は社号の倭文に通じる。後世に至り志津大明神、また伯耆国三ノ宮と称され、武門武将の崇敬篤く、多くの社領を有した。嘉慶2年(1388)以来、永享、天正2年、寛永5年、天和3年、正徳5年、享保16年、宝暦2年(1752)には当時の国主により社殿の建立、社領の寄進がなされたと伝える。
明治4年郷社に列し、倭文神社と復称。
大正2年12月福本の村社福本神社(もと八幡宮 誉田別命)と村社新宮神社(もと新宮大明神 伊弉冉尊)、尾田の村社尾田神社(もと熊野権現 伊弉諾尊)を合併。
大正6年3月福富の村社福富神社を合併。昭和17年5月県社に昇格した。戦後福富神社が分離。氏子区域は志津(含、藤井谷、横谷、仙隠)尾田、福本の旧6部落の氏神である。
神代の昔、天孫降臨に先立ち武葉槌命は、中津国平定の詔勅を受け、軍を当社の地に進め、東(山田宮)、西(橘宮)、南(藤井宮)、北(王代宮)に夫々監視所を設け、之に守護神を祀り陣営を堅められた。
これより先は単身出雲に入り大國主命と神謀り、遂に国土奉献の偉業を成就された。この神業と最も深い関係にあるのが当社の地にあった御神宮(御陣営)である。
また当社は経津主神が軍使として出雲へ御征討の時、御陣営に当てられた神跡であるとも伝えられる。(以上社伝による)
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