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國廳裏神社

神社名
國廳裏神社 
よみ
こくちょうりじんじゃ
住所
倉吉市国分寺426
祭神
大己貴命 少彦名命 木花開耶姫命 保食神 
大山祇神 素盞嗚命 奇稲田姫命 大國主神 
譽田別尊 玉依姫命 天兒屋根命
祭祀
例祭4月21日
旧社格
県社
各種指定
倉吉市保存林に指定(昭和61年)
その他
社紋 亀甲に四方剣花菱 
主要建物 本殿(大社造変形1丈1尺×9尺 文久元年(1861)建立) 幣殿 拝殿 神輿庫 社務所 手水舎 透塀 随神門
境内神社 荒神社
境内面積 3,960㎡
国分寺地区の西方、丘陵上の山林の中に南面して鎮座。本殿の後方にご神木のスギを含め樹齢300年~800年のスギ、ヒノキ、シイ、ケヤキ、モミ等の大木もある。  

由緒

社地は伯耆国庁の内、東南の一角にあたる。
社殿によると上古、伯耆国国造に任命された大八木足尼が国庁を八代(社)に設置、大國主命、少名毘古那命の2柱の神を国庁の中に祀り、国庁裏神社と称した。
元明天皇2年(709)11月に国司金上元為は事務繁忙の為、国中の神社の巡拝が出来なくなり、国中の神社を一社に集めて総社として祭典を行ったと伝わる。『三代實録』 貞観15年(873)4月の条に「授伯耆国無位國廳裏神従五位下」とある国史現在社である。中古より近世に至るまで、総社あるいは伯耆国総社大明神と称された。
慶安5年(1652)の造営では、藩主より人足1,000人、材木丈木寄進、延宝5年(1677)従御公儀米15石、材木寄進、元禄15年(1702)の造営では従御公儀米15石、材木丈木50丁寄進。文政3年(1820)藩士柴野郡左衛門等が山林1段7畝8歩を寄進。
文政13年転法輪殿御家森寺長門守より祈願料として白銀20枚永世寄進。
文久元年(1861)に現本殿を建立。明治初年国庁裏神社と改称し、郷社に列せられた。
明治12年に拝殿等造営。大正2年国の村社國府神社(もと塗籠大明神 木花開耶姫命 保食神 大山祇神)、大谷の村社垂井神社(もと水井大明神 玉依姫命 天兒屋根命)、不入岡の村社清水神社(もと牛頭天王 素盞嗚命 奇稲田姫命)、和田の村社和田神社(もと八幡宮 譽田別尊)、横田の横田神社(もと国司大明神 大國主神)、福光の福光神社(もと牛頭天王 素盞嗚命 奇稲田姫命)を合併、大正4年に黒見の村社東谷神社(もと山根八幡宮 譽田別尊)を合併した。
昭和20年4月県社に昇格。現在の氏子区域は社地区の内、馬場町、寺谷、大谷茶屋、上神を除く全域。
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