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倉田八幡宮

神社名
倉田八幡宮
よみ
くらたはちまんぐう
住所
鳥取市馬場299
祭神
品陀和氣尊 帯仲津彦尊 息長帯姫命 素盞嗚尊 大山津見命 木花咲耶姫命 武内宿禰命 保食神
祭祀
例祭4月15日
秋祭9月15(近い休日)
五穀成就祈願祭7月15日。
神幸祭(隔年で例祭日に近い休日に斎行)…寛政2年(1790)に再興。藩政期は旧暦3月15日。御旅所は参道西側叶地内河原で営まれ、邑美郡全村から延べ200人以上が参加した大規模な祭りであった(社記)。明治以後、新暦4月15日となり、氏子のみの奉仕に縮小され、今日に及んでいる。
秋祭には、午前中に湯立神事が斎行され、午後、傘踊り、だるま踊り等民俗芸能の奉納がある。
五穀成就祈願祭…もと邑美郡32か村による宝暦6年(1756)以来の祈願祭で、明治以来は大口堰土地改良区が主催して現在も連綿として行われている。
旧社格
県社
各種指定
「社叢」が国天然記念物(昭和9年)
「八幡永楽座人形芝居道具一式」が県保護文化財(昭和34年)
「参道松並木」が鳥取市保存木(昭和53年)
「倉田八幡宮獅子舞」が県指定民俗文化財(平成10年)
その他
境内神社 英霊社(氏子出身の戦没英霊を祀る) 昭和35年創祀
境内面積 9,512㎡
御神木は、イチョウ(樹齢千年、幹周11m、高さ40m)。
境内は多数のタブノキの巨木を中心とする平地の原生林で鳥取平野の自然林の代表的なものである。
社殿右側に、神宮遥拝所がある。

由緒

創立年代は不明であるが、社蔵由緒書きによると、石清水八幡宮を勧請したと伝え、かっては社領が1,100石余あったという。
中世には石清水八幡宮領の滝房庄が当地一帯に成立していたと推定され、同庄のことは、承元2年(1208)を初見とする(「石清水文書」)。
天正8年(1580)・9年の羽柴秀吉の因幡遠征のとき、兵火で社殿・記録などが消失し、社領も没収されたと伝わる(前掲由緒書)。
慶長6年(1601)、鳥取城主池田長吉が社殿を建立。
寛永9年(1632)、池田光仲公が鳥取藩主となり、翌10年、12石6斗の社領を寄進し(寄進状写)、当社を一族の氏神として崇敬した。
寛文元年(1661)には、社地から西の智頭街道までの松並木参道八町(約900m)が藩により造営された。これは藩主の参詣と参勤交代時の遥拝のためのもので、この時南面していた社殿を西向きに変えたという(棟札、天保由緒書)。
これ以来、藩主の参詣しばしばあり、元禄13年(1700)正式に祈祷所となった(同由緒書)。
享保19年(1734)、社殿建立。
明治元年、八幡宮の旧称を廃し倉田社と改称して、境内社稲荷社(保食神)を合祀した。
同7年3月、倉田神社、同12年6月に八幡宮と復称した。
同42年10月、当社摂末社である馬場の平木神社(もと荒神 須佐之男命)、蔵田の小島神社(もと荒神 須佐之男命)、八坂の八坂神社(もと岩宮大明神 大山津見命)、橋本の橋本神社(もと弓宮大明神武内宿禰命)を合祀、大正5年12月には、同じく摂末社である中大路の中大路神社(もと見取大明神 木花咲耶姫命)、同6年8月摂末社数津鎮座緑神社(もと緑大明神 木花咲耶姫命)を合祀した。
大正13年7月、郷社より県社へ昇格。
次いで同年10月、美和の村社美和神社(もと牛頭天王 須佐之男命)を合祀した。
昭和18年の鳥取大震災の被害は甚大で、本殿以下主要建物のほとんどが倒壊。以来復興に数十年を要した。
昭和30年7月5日、倉田八幡宮に名称を変更した。
参道入口の石鳥居は、元禄4年(1691)、浪華北浜の豪商、桑名屋仁兵衛寄進のもの。
宗教法人鳥取縣神社廳

〒680-0015
鳥取県鳥取市上町87
TEL.0857-24-7699
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