神社名 | 意上奴神社 |
よみ | いがみぬじんじゃ |
住所 | 鳥取市香取369 |
祭神 | 速須佐之男命 保食神 |
祭祀 | 例祭3月9日 例祭にはお釜神事がある。 |
旧社格 | |
各種指定 | 社叢が県天然記念物(昭和59年) |
その他 | 境内面積 1881㎡ 集落の南方の遥拝所より1㎞余の参道坂道を上った山中に鎮座。 社叢は、原生林の面影を色濃く残す大規模な照葉樹林が発達している。タブノキ・シイ・ウラジロガシの大木が多く、山道状の参道や渓流など古い神社境内の様相を残している。 |
由緒
『延喜式』神名帳(927)に「意上奴神社」と記されている式内小社である。
古く七社大明神とも称し、祢宜谷、香取、紙子谷、広岡、舟木、海蔵寺、桂木等7か村の総社であったが、後年、香取、紙子谷2村の氏神となった。
社記に文徳天皇仁寿年中(851~54)正六位上を授けられ、奉幣使2回遣わされ、更に醍醐天皇延喜5年(905)と後一条天皇万寿3年(1024)にも奉幣使を遣わされるなど、国中に異変あるときは国主が必ず参拝したとある。
古代は神部を置き、禰宜の神部の居た地を祢宜谷、神巫の神部の居た地を神子谷(現紙子谷)と称し、旧社領は七町余りの田地を有したと伝え、宮田、意上田等の名称を残している。
境内は「千古斧を入れず」の感深く巨木林立し、『神名帳考證』にも「宇倍神社をのぞきては国中にて大社と思はるる地のさまなり」と賞賛している。
江戸時代には歴代藩主の代参や武家達の参拝もあり広く尊崇され、大祭には競馬、騎馬等の催しがあり、馬場、矢谷、白馬ノ井、馬洗などの小字名が残る。
貞享5年(1688)、小泉友賢が参拝したときの自筆の棟札が現存する。『因幡誌』に絵図が掲載されている。
天保元年(1830)に本殿再建。
明治6年6月、境内末社稲荷大明神(保食神)を合祀した。
往古より海上安全の信仰があり、日本海の遙か沖合を通る船上から当社の方角に向かい、航海の無事を祈って手を合わせたという。
往古より海上安全の信仰があり、日本海の遙か沖合を通る船上から当社の方角に向かい、航海の無事を祈って手を合わせたという。
意上山頂上から流れる清流が、本殿横辺りで滝となって落下しており、龍神と不動明王を祀る神域として、以前は禊ぎをするものも多く修験者の錬成荒行の聖地でもあった。
また当社は上古、意上山の山頂近くに鎮座していたが、険しい山岳の為現在地まで移転したという。『因幡誌』には当社を意上神社と記し、呼称もイガミではなく「オカミが正ならんや」と記述している。村の古老は現今でもオカミヌ神社と称している。
江戸時代より昭和20年代までの棟札42枚を現存する。